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[昔話] 水車
大崎2丁目 清水澤子さん

 昭和10年、千葉から大崎にお嫁に来ました。
 私の家は「清水粉砕所」、機械で粉を作るのが仕事です。レコードの原料や、ベントナイト(粘土の一種)等、いろんな物を扱っていました。工場には若い人も働いていて、大所帯。食事は大勢の分を作りますが、肉屋や漬け物屋など、ふだんの買い物は百反通りで済むので、助かりました。
 うちが工場になったのは、大正4年。電力を使い始めてからですが、その前は水車小屋だったそうです。
 川幅2.7メートル、品川用水の豊かな流れが水車を回し、米を搗くのです。臼は大きな石、それを動かす機械は主人の設計です。米は近所のお百姓さんが持ってきたもので、うちで精米していくのです。
 水車には、いろんな仕事があります。川の管理もそのひとつ。川が順調に流れるように、川の段差にひっかかったゴミを取ったり、川底をさらったりします。この仕事は、のどかそうに見えますが、破傷風という怖い病気と隣あわせ、とても危険なのです。工場にとって、この管理料は年に20円の収入になります。でも用水の使用料を20円払いますので、結局、収支は0です。
ところで、品川用水は上流で多摩川につながっているのではないかと思うのです。というのは工場のいたずら好ききの若い衆が、付近の畑から盗んだスイカを多摩川に投げ込んだら、うちの水車のところに流れついたと言っていましたから。でも、これ、冗談かな?
 それから、あわやさんの裏のお稲荷さんにお参りしたら、石段の石を横から眺めてみてくださいね。じつは、この石、うちの水車の石臼だったんです。長いあいだ工場で働いてくれましたが、今は静かに神様にお仕えしているんですよ。

(取材 青木・澤田)

※品川用水は百反通りの片側(城南信用金庫や消防署の側)を流れていました。

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『しながわ夢さん橋2007』と同時開催された「大崎今昔写真展」で展示された大崎周辺の昔話を、写真展の実行委員会並びにしながわ観光協会さんのご厚意により転載させていただきます。大崎第二地域センターが発行している「ふれあい」に掲載されたインタビュー記事を元に構成しました。また、品川区のホームページ内にある「しながわWEB写真館」では、昔の写真を見ることができます。ぜひ昔話とあわせてご覧下さい。

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| 大崎周辺の昔話 | 11:31 | comments(0) | - |
[昔話] 消防士の奥さんは大忙し!
大崎在住・丸山ヒデさん

 ここに住み始めたのは、昭和24年か25年頃からです。それまでも50年ほど前から大崎に住んでいましたが、主人の仕事の都合で引っ越しの連続でした。主人の仕事は消防士。当時、消防士は勤務先から1里(約3.9km)以内に住まなければ行けないということで、事例が出るとすぐ引っ越しです。おかげで引っ越しのベテランになりました。
 戦争中も疎開しませんでした。夫は仕事ですし、私は家を守っていました。あの頃は頑張りました。町会の防空演習ではモンペ姿でバケツ・リレーをしたり、屋根の上に昇ったり……。いざという時には日頃の訓練が役立ちますから。でも、自宅は半焼してしまい、四畳半の防空壕やバラックに住んでいた時期もありました。また、食料不足を補うために麦を作りました。みんなが苦労をした時代でした。
 やがて戦争は終わりますが、定年退職した主人が町会長(三代目・一二三町会長)になり、あいかわらず忙しい日が続きます。町会の行事の「お知らせ」をガリ板で切ったり、寄り合いに出たりで多忙な主人の世話をしました。特にお祭りの時はたいへんです。この家は休憩所になりました。婦人会の人が集まり、煮しめなどのお料理を山のように作ります。そして、お客さんがみえると30本もあるお銚子が大活躍して家中大忙し。夜遅くまで賑やかでしたね。

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この昔話は、しながわ観光協会さんのご厚意により、大崎第二地域センターが発行している「ふれあい」から転載させていただきました。

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| 大崎周辺の昔話 | 16:34 | comments(0) | - |
[昔話] 第7回 初めて食べたカレーライス
西品川在住・岸 なみ さん

 私の家は、この辺りでは古い方で明治のまえあたりから居たみたいです。父が三代目、私たちが四代目、息子たちが五代目になります。
 父は真面目な勤労家で農業一筋に生きた人でした。この辺は高台でしたから見渡す限り畑で、新幹線、妙光寺、そよ風公園のあたりは田圃でして、イタチやモグラがいました。寂しい所でした。
 明治二十四年生まれの母が、城南小学校に通っていましたので、学校の帰りにお使いを頼まれて、買ってくるのが恥ずかしくて嫌だった、と言っておりましたのでこの辺は本当に商店が無かったのでしょうね。
 三木通りの裏通り(谷岸さんの先)に綺麗な水が、コンコンと湧き出ていて、近所の人達が市場に出すお野菜を洗ったりする大きな洗い場がありました。木型屋さん、質屋さんのそばで、最近はわかりませんが、蓋をしてあるという話です。水脈がまだあるのでしょうね。
 三木通りには、どこから来ているか判りませんけれど、戸越の方から流れてくる川があって、そこで洗濯をしていました。上流に、なめし革屋(革製品)さんがあって、時々川が真っ赤になりました。三菱金属のあたりにも、小さな川があって、しじみ取りに行きました。
 関東大震災の時は、とても恐ろしく、今でもはっきり覚えています。家は瓦が落ちただけでしたが、また大きい地震が来るのが心配で家の中に入れないで、お風呂場で食事をしたり、庭で野宿をしていました。井戸の側はすごい地割れで五センチくらいの亀裂がたくさん出来ていました。
 家の裏が竹藪だったので、地震の時は竹藪が安全と、近所の人達が、大きい地震が来るたびに非難していました。町会の人達が、ライスカレーの炊き出しをしてくれて、私は生まれて初めてカレーライスを食べました。
 どの位この騒ぎが続いたのか分からなかったけれど、よそに出かけていた叔母が、二日ぐらい帰ってこれなくて心配したので、しばらくは続いたのでしょうね。
 震災後は、急に物資が高くなって、お嫁に行く叔母に良い物を持たせてやれなかったと、母は言っていました。その頃は、お嫁に行くのも歩いて行ったのですよ。夜、提灯をつけて、近所の人達に送られていきました。今は遠い昔の思い出となっております。

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| 大崎周辺の昔話 | 15:25 | comments(2) | - |
[昔話] 第6回 妙華園
西品川在住・田中よしさん & 太田あきさん

西品川には妙華園という庭園がありました。銀座の河瀬さんの所有で、このお庭では時々、パーティーがひらかれます。その時に遊びに行くと、子ども達にお菓子が配られます。庭にはアヒルのいる池やブランコなどがあって、とてもきれいで楽しいところでした。やがて、この土地の持ち主がかわり、庭園は取りこわされ、国鉄の工場(被服しょう)が建設されます。そして、その工場は戦争の時に焼夷弾を落とされてしまいます。
 今は、JR東日本(旧国鉄)の東京健康増進センター(スポーツ・プラザ)になり、地域の人に親しまれています。

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| 大崎周辺の昔話 | 08:48 | comments(0) | - |
[昔話] 第5回 平和坂
西品川在住・田中よしさん & 太田あきさん

 昭和のはじめ、平和坂一体はとても寂しいところでした。そこへユウリン社という住宅会社が建売住宅を作りました。間口2間半(4m)、奥行き1間半(2.7m)。同じ大きさ、同じ間取りで1戸1000円。お店用も住宅用もあります。毎月、家賃より少し高めのお金を払っていくと自分の家になるというシステムです。でも、なかなか買い手がつかず、「ユウリン社の空き家通り」といわれていました。
 その空き家へ機械屋さんが入ってきて、一時は工場の街みたいになりました。今のように商店街になったのは終戦です。この坂に「平和坂」という名前がついたのも終戦後だったようです。そういえば記念湯のご主人が「平和坂 登りも下りも湯のかおり」という俳句の看板を出していました。

◆平和坂通り商店街Web
http://www.heiwazaka.com/

◆戸越銀次郎ブログ - 戸越銀座の昔話
http://t-ginjiro.jugem.jp/?cid=8

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| 大崎周辺の昔話 | 12:48 | comments(0) | - |
[昔話] 第4回 家は百歳
西品川在住・佐野きく子さん

◆家は百歳
 今回は、三ツ木小学校の前の道(荏原街道)、蛇窪塚の近くにある佐野さんを訪問しました。
「ここに来て50年になります。当時は坂を下ると富士山が見えてよかったのですが、戦後は高い建物ばかりでもう見えません」
「戦争で三木小学校が焼けまして、体育館だけは残りました。庭の大きな門のところに焼夷弾が落ちましたけど、家の前が消防団の詰め所になっていたお陰で消し止めました」
「家は百年近く経っているのでしょうか。私が来た頃、屋根屋さんが『この家は50年経っているよ』と言われ、それから50年ですからネ〜。この変で建築百年というのは、一番古いですね」

◆昔の大崎は、いい町だった
「今の横須賀線は、当時貨物線でしたから、夜中に土手の上をゴトゴトと列車が通っていました。30年前くらいは私の自宅で、やぎを飼っていまして、その土手の草を刈って食べさせ、よかったですね」
「こちらへ来たはじめの大崎は、本当におっかなくて……。明電舎の工場ばかりで、ずーっとへいがあって、お店屋さんは全然ありません。大崎の家は不便な所だとよく言われました。大正末期や昭和の初期はすごく栄えていました。百反通りは演芸場・映画館・車屋さん・ビリヤード・カフェーがありました。今の駅前のマンションの裏あたりは、お米屋さんが3軒、肉屋さんが2軒あり、大きなミルクホールなど、お店は30〜40軒ありました。終戦後になりますと、戸越銀座がにぎやかになりまして……」

◆もっと変わりますョ
「あと5年か10年で、大崎の町も考えられない程変わると思います。『昔の大崎は、こんないい町だったよ』という事を、是非地元の皆様に知って置いてもらいたいと思います。

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| 大崎周辺の昔話 | 16:54 | comments(0) | - |
[昔話] 第3回 昔の百反
大崎在住・別府せい さん(明治40年生)

 昭和2年(昔の年で21才に中延の方から文金高島田で人力車にのってお嫁に来ました。
 その頃のこのあたりは一面の畑で、百反通りに面した商店街は、道幅も狭くて、綿屋・髪結い屋・おもちゃ屋・お菓子屋などなど、戸越の方よりずっとにぎわっていました。通りの片側には、小川が流れていて、あわやさんの裏手には水車小屋もあってとてものどかでした。
 当時の子供達は1銭、2銭のお小遣いをもらって駄菓子屋で、マコロン・金平糖など買ったり、手づくりお手玉やおはじきで遊んでいました。学校へは教科書をふろしきに包んで通っていました。
 芳水小学校通りのお稲荷さんの縁日は、百反通り両側に屋台が並び、6の日には大変なにぎわいで、人力車も入れないほど人がたくさん集まり盛況でした。あと楽しみといえば、なんと「大崎キネマ」という映画館や劇場などもあって、庶民のいこいの場所でした。
 一番辛かった思い出といえば、戦争もだんだんはげしくなって、学童疎開で子供達と離ればなれになった時です。芳水小は、西多摩郡の福勝寺に疎開していて、子供達は食べ物が充分でなかったので栄養失調でやせている子ばかりでした。面会にいく時は、全員にわたるように、ふかしいもや配給のコッペパンをためておいて、持っていきました。しかし、我が子があんまりやせているのでびっくりし、縁故疎開にするからと校長先生に許可をもらい、連れて帰り、お医者さんに診てもらったら、「別府さん、もう少し遅かったら駄目でしたよ」と言われ、とても悲しい思いをしました。
 空襲の時は、防空壕に入って避難しましたが、百反の商店街は空襲で皆焼かれ、残ったのはうちの蔵だけでした。

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『しながわ夢さん橋2007』と同時開催された「大崎今昔写真展」で展示された大崎周辺の昔話を、写真展の実行委員会並びにしながわ観光協会さんのご厚意により転載させていただきます。大崎第二地域センターが発行している「ふれあい」に掲載されたインタビュー記事を元に構成しました。また、品川区のホームページ内にある「しながわWEB写真館」では、昔の写真を見ることができます。ぜひ昔話とあわせてご覧下さい。
| 大崎周辺の昔話 | 13:21 | comments(2) | - |
[昔話] 第2回 大切な命
西品川在住・六十路(むそじ)さん(明治40年生)

 生まれたのは五反田。当時は「八ツ山」と言われ、たんぼばかりで、かやぶき屋根の家で育ちました。駅では書生さんが、バイオリンをひきながら古本を売っており、人力車がいつも2,3台客待ちをしていました。日が暮れると脚立を持った“ランプつけ”が道路のランプ灯に火をともしていました。
 西品川には、戦争のはげしくなった昭和20年に越してきました。空襲にそなえて、持ち物袋には常に、赤ん坊のおむつと焼き米の入った茶筒を用意し、庭には防空壕を掘っていました。怖かったのは艦載機で、操縦士が見えるほど低くおりてきて、ねらい撃ちするんです。おぶっている赤ちゃんに焼夷弾が直撃して、「頭に穴があいた」とお母さんが泣き叫んでいる姿が今だに目の前にちらついています。
 結局、西品川に来て一ヶ月で焼け出されました。でも正直なところホッとしました。家があるとB29にねらわれ、その日その日がビクビクの連続でしたから。やっぱり、家より「いのち」の方が大切ですからネー。
 キャベツがどういうふうに出来るかもしらず、苗を買って育て、大きくなってゆくのは楽しみでした。もちとうもろこしを植えて、お昼は毎日とうもろこしでした。焼け出された当時は32才、若くて食べたい盛りに、イモのつるとかイモの粉、大豆の粉も食べました。東上線で買い出しに行き、8貫目(30kg)ものイモで大崎の駅の階段がおりられない、そんな苦労もありました。
 あの当時を思い出すと質素で、それでも命がつながっていた。今は贅沢だと思います。でも平和が一番ですね。

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| 大崎周辺の昔話 | 06:19 | comments(2) | - |
[昔話] 第1回 牛の涙が忘れられない
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『牛の涙が忘れられない』 
大崎在住・小林まつ さん(明治31年生)


 大正5年に、静岡県の網代(熱海市)よりこの居木橋にお嫁にきました。その頃は、今の富士電機の裏に「屠殺場」があり、大崎の貨物駅からおろされた牛が、涙を流してここを通っていたのをよくおぼえています。肉の問屋さんも5,6件あり、そこで働いている人の為にお風呂屋さんもありました。肉は大八車で配達します。働いている人々は、朝3時頃には起きていました。大八車を引いて行くのですから、朝早く出かけないと間に合わなかったのです。
 御殿山の坂のところには、大八車の後押しをする人が待っていました。坂の上まで1回2銭(100銭=1円)です。「森永」の工場もここ居木橋にあって、今でも総合体育館へ行くところに「森永橋」として名が残っています。
 家の横には、明電舎の方から小川が流れ、そこから「ひしゃく」でよく水まきをしました。その小川が流れ込む目黒川では、夏には泳いでいる人もいましたし、魚もよく釣れました。新井さん(居木橋町会長)の家の所には、エンピツ工場があり、その裏に「メイソウ園」という花畑がありました。呉服屋さん、げた屋さん、魚屋さん、自転車屋さん……。その裏に、八軒長屋や四軒長屋(今のアパート)がたくさんあってとてもにぎわっていました。
 今ではすべてが、よい思い出となっています。

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※当ブログでは、あえて大崎第二地域センターが発行している『ふれあい』に掲載された当時の文章をそのままに、「屠殺場」という言葉を使用しています。
大崎にあった「と場」は、1940年代に三ノ輪、寺島、千住、野方、玉川の「と場」と合併し、現在では品川駅東口にある「東京都中央卸売市場食肉市場・芝浦と場」として私たちの食生活を支えています。品川区のホームページも合わせてご覧下さい。


◆品川区 - 食肉市場(芝浦と場)
http://bit.ly/c3hei4

※「食肉市場(芝浦と場)」のURLが変更されていたので、更新しました(2010.10.29)
| 大崎周辺の昔話 | 06:07 | comments(1) | - |
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